パンの定義
パンの基本的な定義としては、「小麦やライ麦に水分や酵母を加えて、こねて焼いたもの」です。
昔、江戸の蘭学者はパンのことを「小麦の粉にあまざけを入れ、ねりあはせて蒸焼にしたるものなり」と定義していました。
しかし、世界中に様々なパンが存在し、世界を自由に行き来できる現代において、パンの定義は地域や国、家庭によって大きく異なっているといえます。
パンといえばこれ!という定義は人それぞれで、食パンであったり、ローフブレッドであったり様々です。
そう、パンはまさに文化を象徴するものであり、定義をしっかりと理解するためには、その地域や人の文化から理解する必要があるということです。

パンの歴史
古代エジプトで誕生したパン
パンの歴史は、紀元前8000年にまでさかのぼります。
パレスチナからイランにかけてのメソポタミア地域では、この時期にすでに小麦を栽培していたことが、遺跡の情報からわかっています。
紀元前4000年頃にもなると、小麦や大麦をすりつぶして粉にし、それに水を加えて焼いたせんべいのようなものが食されていました。
これがパンの起源なのではないかと言われています。
これらの平たいせんべいのようなパンは、発酵させないため「無発酵パン」と呼ばれますが、中近東諸国では現在でもこのようなパンが広く知られており、生活の中に溶け込んでいます。

膨らんだパン
現代のように酵母を使用したパンは、古代エジプトにて偶然完成されたと伝えられています。
小麦の粉を水でこねた生地をしばらく放置していたところ、偶然にも空気中にあった酵母が付着して生地は発酵。
その生地を焼くと、香ばしくておいしく、人々は大変喜んだそうです。
古代ギリシャへ伝わる
紀元前1000年頃になると、古代エジプトで誕生したパンが古代ギリシャへと伝わります。
古代ギリシャの中心、地中海地域では、オリーブやレーズンの栽培が盛んなこともあり、それらが組み合わされた新しいパンが誕生することになります。
また、古代ギリシャにはパン職人が存在していたとも言われています。
古代ローマへ伝わる
古代ローマへと伝承されたパンは、ますます発展していきます。
遺跡からは製粉所やパン屋、現代とほとんど変わらないような質のパンが発掘されています。
この時代のローマにはすでに、パン屋がたくさん軒を連ね、現代と同じようなパンが売られていたと考えられます。
ヨーロッパ全体へ伝わる
古代ローマにおいて、パンは階級を表していたとされています。
上流階級の人々は、精製された小麦で出来た白いパンを、下流階級の人々は、ふるいに残った粉を使用した、黒いパンを食べているのが普通でした。
キリスト教のヨーロッパ普及とともに、パンもヨーロッパへ広く伝わっていきました。
日本におけるパンの歴史
まず、日本に小麦が伝わったのは、弥生時代の頃だと言われています。
中国から伝わった小麦は当時、粉にして水で溶き、せんべいのように焼いて食べられていました。
パンそのものが日本に伝わったのは、1543年のこと。
鉄砲の伝来とともに、ポルトガルからパンが伝わりました。
日本における「パン」の語源は、ポルトガル語のパンの意味を持つ「パオ」だとされています。
兵糧パン
鎖国状態に陥った日本から、パンの文化は消えていきました。
しかし、外国からの攻撃に備えた兵糧としてパンは大活躍!
戦の時には、乾パンのようなパンにひもを通して、非常食として腰からぶら下げていたそうです。
木村屋のあんぱん
東京・新橋に、1869年、日本人初の開業となる「文英堂」というパン屋が誕生します。
これが、あの有名な現在の「木村屋總本店」です。
このパン屋では、あんをパンに詰め込んだあんぱんが誕生し、人々の人気を集めました。
それとともに、一般庶民にもパンが浸透していくこととなりました。
その後、戦時中の食糧難などを乗り越えながら、カレーパンや海外のパン、菓子パンなど様々な種類のパンが日本国内で作られるようになりました。
学校の給食でもパンが配られるようになり、日本においても主食としてのパンという定義が完成しました。
現在、街中には個性豊かなパン屋が軒を連ね、非常に多くの種類のパンを手軽に楽しめるようになりました
日本のパンは品質が良く、バリエーションも豊かで、諸外国からは評価の高いものとなっています。